弓を使えるようになりたいと名前が言い出したのは、初夏の頃だった。
互いに忙しいのは分かっているけど、これから先のことを考えて出した結論だと告げた彼女の決意は固く、僕も断る理由を持ち合わせてはいなかった。
「少しは上達したと思ったんだけどなぁ。やっぱりまだまだだよね」
弓を引くようになって二ヶ月程。狩りができるようになりたいという名前の目標にはまだほど遠く、しかしながら数メートル先の的を射ることはできるようになってきた。ゆっくりでも着実に技術を身に付けていく。実直な名前の人柄そのものだと思っていた。
「どう?左手の具合は」
「ちょっと痛いかも」
弓を扱っているとよくできる、左手親指の付け根の掠り傷。彼女も例に漏れずそれに悩まされていた。この傷を庇おうとすると、思うように弓が引けなくなってしまう。
「早く、羽京さんみたいにできるようになりたいのにな」
どんな武芸も一朝一夕では身に付かない。彼女もよく理解しているはずだった。
日が経つにつれ機帆船が完成へと近付いていく。そのことが焦りを生んでいるのは間違いない。
「大丈夫。できることをやってこう」
気の利いた言葉をかけてあげられないのが歯痒かった。ゲンだったら、こういう時も名前を励まして笑わせることができるのかもしれない。
「あ、そうだ」
ゲンで思い出したが、明日の夜、川辺で花火をするイベントが控えているのだった。8月も終わりかけてるというのに何もなくて悲しいと嘆く声と、好奇心溢れる子どものまなざしに折れた千空達科学チームが手持ちの花火を量産していたのは記憶に新しい。そして明日がその花火のお披露目会というわけだ。
「明日の花火大会、名前も来る?きっと良い息抜きになると思うよ」
名前は黙ってゆっくりと頷いた。
ついさっきまで教える側と教えられる側の立場同士。とはいえ一緒に行く約束すら取り付けられていないことに気付いたのは彼女と別れて一人夕飯を食べ終わった後だった。僕はバカだ。
▽
今夜は絶好の花火日和になるという龍水の押した太鼓判のとおり、雲も風もない穏やかな夜だった。
花火を手に持った子ども達はそれに火を付ける瞬間を今か今かと待ちわびている。
名前の姿は賑わいからは少し離れた木陰にあった。
「花火もらった?」
彼女の手に握られているのは線香花火一本だけ。さすがに遠慮し過ぎじゃないかな。そう言っても、彼女はこれで充分だと控えめに笑っている。
「羽京さんも一本しか持ってないでしょ」
「あはは、正解」
テメーらは良い年こいた大人だろうが。だから作り方だけ教える。後は分かんな?
そうやって丸投げされて手作りした線香花火だ。たくさん作った花火は、子ども達が楽しんでくれたらそれで良い。
「なんだか変な感じ。私も大人なんだね、ここでは」
単純に年齢の話を千空はしていたかもしれないけれど、名前は「頼られるようになったみたいで嬉しい」とはにかんだ。
「火、付けちゃおっか」
「もう、羽京さん意外とせっかち?……って冗談だよ、早くやろう」
川の近くに移動してから火を付けると、パッと火花が散った。お手製の花火はどうやら上手くできていたようで安心した。気が付けばそこかしこで同じようなことが起きていて、歓声や感嘆のため息が聞こえてくる。
「あ、名前の花火は色が違うね」
「うん。教えてもらって」
花火がすぐ消えてしまわないよう集中しているらしい名前からは、それだけが返って来た。
互いの火が落ちるまで、僕と名前は互いに言葉を交わすこともなくただ小さなその花に見入っていた。
「本当はね、そんなすぐにできることじゃないって分かってはいるんだ」
再び木陰に戻って遠くに見える花火の明かりを眺めながらぽつりぽつりと彼女は言葉を紡いでいく。
「狩りがしたいなら他にも方法はあるし、弓を習うにしたってもっと早く羽京さんに声をかけなきゃいけなかった。でも、このままじゃ……怪我も治らないうちに一人立ちしないとダメだね」
誰も言わないけれどきっとみんな気付いている。船が完成したその先のことを。名前も分かっている。だからこそ僕を頼ってくれたのだと思う。
「私もっと強くなりたい。皆に頼ってもらえるのが嬉しくて。でも、気持ちばっかり焦って。そういうのが弓にも出ちゃったのかも」
ついこの間嵐を凌いだ時とも違う、今にも落ちそうな線香花火みたいな音がした。
涙こそ流れていなくても、泣いているみたいな顔をして名前は唇を噛んでいた。
過るのはさっき二人で眺めた、火花が小さく爆ぜるあの光景。
名前を目で追うようになってからずっとずっと抱くことすら許されない思っていた気持ちだった。でも、あの日彼女が守られるだけの弱い存在なんかじゃないと分かって、海の底に無理矢理封じ込めてきた醜い感情と共に生きていく覚悟をした。
守りたいだなんて生易しいものなんかじゃない。
誰にも聞かせたくない、ゆらゆらと頼りなく揺れる名前のその声を。誰にも見せたくない、今にもあふれそうな感情を湛えた名前のその瞳を。
「名前」
名前がいて、僕と同じように名前を想う人がいて。生き方も考え方も違う人と同じ時を過ごしながら、自分という人間の輪郭が今までよりはっきりと分かるようになった気がしていた。
「あ……ごめんね、せっかくのお祭りなのに暗い話しちゃって」
「良いよ、名前もさっき言ってたけど、僕だって頼られるのは嬉しい」
名前がこうして僕に心の内を見せてくれることがこんなにも嬉しい。
僕がそんなことを考えてるなんて名前は夢にも思っていないだろう。今まではそれでも良かったのに、もうそれだけじゃ足りない自分がいることも含めて。
「名前が頑張ってる時もそれができない時も、こうして話して気が楽になるならいくらでも……って、名前!?」
それまで遠くを眺めていた名前が、両手で顔を覆いながら俯いている。
「う、羽京さん、は……どうして……」
どうしていつも優しくしてくれるの。
震える喉から絞り出したであろうその声に、こっちの心臓まで締め付けられているようだ。
流れはどうであろうと、僕が泣かせた。それでも名前は「私が勝手に泣いてるだけだから」と頑なに首を横に振った。
「名前ごめん」
「違うの羽京さん、私、」
「ううん。名前の想像してるごめんじゃない」
――じゃあ何に。こんな世界で、独り善がりな気持ちを彼女にぶつけようとしてること?今この瞬間も、僕と同じように彼女を想ってる人の顔を思い浮かべてしまったこと?それでもなお、この気持ちを言葉にしようとしてることに微塵も罪悪感を抱いてなんかいないこと?
全部正しくて、全部間違っているような気がする。
だけど、言わなければ。言ってしまわなければ、名前に納得してもらう術が、僕にはもうない。
「名前。僕は、名前が悩んでるのなら僕に一番に聞かせて欲しいし頼って欲しいって思ってる。こうして泣いてるなら、涙を拭う権利だって欲しい。……こんなの我が儘だって分かってるけど、そう思うのを許して欲しいんだ。他でもない君に」
彼女の隣に立っていたい。ただそれだけの気持ちなのにいざ言葉にすると、僕はこんなにも欲張りな人間だ。ちっとも優しくなんかないじゃないか。
「好きなんだ。名前、君のことが」
生ぬるい風が、遠くに聞こえていたはずの喧騒も煙の匂いも遠くへと拐っていってしまう。
涙に濡れた彼女の瞳が今この世界で一番美しいと、僕は本気で思っていた。
2021.4.24
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